Taiwan Tips

19. 歌仔戲(ゴアヒ)

台灣で人々に好まれている民間の伝統芸術はたくさんあります。その中でも特に親しまれていると言えるのが歌仔戲で、台灣語で“ゴアヒ”と発音します。なぜ中国語でなく台灣語で発音すると言いうと、それは歌仔戲がすべて台灣で生まれ育ったオリジナルな伝統芸能であるため台灣語で演じて歌うものだからです。私の小学生や中学生ごろ、よくテレビで放送されている歌仔戲を見ていました。放送する時間はだいたい夜の6時半頃からの30分間でした。家族と一緒に夕ご飯を食べながら見るのです。その時間帯に放送される歌仔戲は必ず視聴率が一位になるといわれていました。とはいえ、歌仔戲はいったい何ですかと思わず聞きたいでしょう。

歌仔戲の原形は劇ではなく、「歌仔」と呼ばれる歌謡だった言われています。明清時代(17世紀前後)に福建省しょう州(「しょう」はサンズイに章)からの移民が持ち込んだ民謡に簡単なしぐさを加えて作り上げた劇で、台灣オペラともいわれています。その当時、農家たち暇なときに廟(お寺)の前の広場や空き地に集まり周囲を竹竿を挿し即席出演できるので「落地掃」とも呼ばれます。そのあと、農家だけでなく一般庶民にも人気を得て行きその過程で民間の伝説や昔話などを劇にするようなり、派手な衣装を着、現在の歌仔戲になったのです。その衣装は一見中国の京劇などと似ていて間違えるかもしれませんが、実際に2つの劇を鑑賞してみれば化粧や動作でその違いがはっきり分かります。音楽もみんながなじめる歌謡で、せりふも日常生活の言葉で台灣が普通に話せる人は京劇や歌舞伎のように字幕や解説が入らないと分からないということはありません。それによく知られているおもしろい民間伝説を物語にしているので歌仔戲は台湾特有の地に付いた芸能になったわけです。

歌仔戲はテレビがまだ普及していない時代は野外歌仔戲が盛んに行われていた時代もありました。今でもお祭りの時などに行われ廟の近くの道端に仮設の舞台を建て、誰でも気楽に見ることができるようになっています。近所の人だとわざわざ自分の家から椅子を持ってきて歌仔戲を楽しむ人もいます。私がまだ幼い頃、母の運転する原付バイクの後ろに乗って出かけた時、母は野外歌仔戲がやっているところを通ると母は必ず止まってしばらく鑑賞するのです。今では野外歌仔戲は地方の祭りなどでたまに見かける程度です。

歌仔戲の舞台は野外からテレビの世界へと映ってきました。テレビでの主人公は必ず女性が演じます。日本の宝塚のようですが、主人公以外の演じ手が女性とは限りません。その中でも一番人気のある人は楊麗花という40年間も歌仔戲の世界に心血を注ぐ女優です。歌仔戲=楊麗花と言ってもいいぐらいかもしれません。男性と女性はまたそれぞれ決まりのしぐさがあり私は小さいころよくしぐさをまねしていたのを覚えています。

歌仔戲は台湾の農耕文化の産物だと言われます。娯楽の少なかった時代に誰にでも分かりやすい歌仔戲はたくさんの人気を得たのです。しかし、この素朴な農民たちが生んだ台湾の芸能は社会の知識層には軽蔑され、大事にしようとされませんでした。昔は歌仔戲に出演する人もだいたい親代からの後継ぎや貧しい人たちが生活するためやむを得ずする職業でした。そのような見られ方しかされなかった結果、歌仔戲は時代の趨勢とともに衰退し、若い世代の人はほとんどテレビによる放映でのみ歌仔戲を見たことがありません。しかし現在では本土化(中国化)の流れの中「台灣独自の文化」ということから新たに見直しされ始め、その伝統芸能の復興を図る政府は期待されているではないかと思います。

歌仔戲の写真
http://tacocity.com.tw/TWopera/index2.html
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18. 台灣の棒球事情

 日本人によく聞かれる質問の一つで「台灣の国民的なスポーツは何ですか?」という質問があります。そんな時、私がちょっと考えて出す答えはいつも「特にはないですけど、強いて言えば野球です」になります。先月はサッカーワールドカップで日本全国中のサッカーを知っている人でも知らない人でも一つになりテレビの前やラジオを聞き日本チームを応援し私もいつのまにかにその中の一人になっていました。そうなると増々「そんなスポーツ、台灣にあるのかな?」と考え込んでしまいます。

 日本人がスポーツに熱くなるのは他にもあります。私が日本に来て最初の夏休みを迎えた時にそれを見てびっくりしたのをおぼえています。それは甲子園です。その時は「ただの高校生の野球なのに」と思うほど昼食などを食べに行く先々の食堂で店の人もお客さんも甲子園の試合を一生懸命見ている姿に驚きなぜこんなに熱中になれるのかと思いました。

 台灣にあるプロスポーツは野球とバスケットボールです。今回は台灣の野球についてお話しします。野球は中国語では棒を使ってする球技なので「棒球」と言います。そしてプロ野球は「職業棒球」それを人々は略して「職棒」といいます。職棒のリーグは二つあります。中華職棒聯盟と台灣大聯盟です。中華職棒聯盟は1990に設立され現在では4つのチームがあります(発足当時は7チーム)。台灣大聯盟は1997年に成立されやはり同じく4つのチームがあります。どちらも日本のプロ野球の長い歴史とは比べられないほど若いリーグです。中華職棒聯盟は日本のプロ野球と同じ様な感じですが、台灣大聯盟はケーブルテレビ放映の為に作られたリーグです。この二つのリーグは日本のパシィフィックリーグ(パ・リーグ)とセントラルリーグ(セ・リーグ)とは違い、シーズン最後に両リーグ1位同士の台灣一を決めるというような関係もなく完全に独立した二つリーグです。

 台灣のプロ野球が一番盛り上がった時期は私の高校時代でした。私の出身地屏東を本拠地とする野球チーム・時報鷹などがありました。私は野球にそれほど興味を持っていなかったのですが、周りの友達はよく試合を球場までを見に行ったり、選手たちをキャンプ地まで追いかけたりしていました。その時は野球選手がアイドル化され、アルバムを出す人もいました(台灣人の習慣:人は人気が集まると、歌が上手かどうかを問わずアルバムを出し歌手になります)。そんな風に盛り上がっていた職棒も私のような一朝一夕では野球ファンにならない、時間のかかる人達を野球ファンにする時間も充分に無いまま野球の人気が一気になくなってしまった事件があります。1996年にスポーツ界ではもっともあってはいけない事が起きたのです。それはスポーツ賭博です。選手たちと暴力団との間での取引き行為などが暴露されました。選手が違法な大金を稼ぐためや、暴力団に脅迫され家族の安全のためにやむなく試合をわざと負けるなど、試合のすべては暴力団のコントロール下になりさがったのです。さらに事件と関わった選手の数が明らかになると更に社会に大きな衝撃を与えました。あるチームでは全選手の中で事件と関わっていない人は二人しかいなかったという事もありました。そのチームは事件発覚後解散しました。事件は今でも未解決のままです。汚職であれ、やくざに脅迫されて家族の安全を守るため試合にわざと負けさせたりするのであれ野球のファンに多大な不信感をもたせてしまいました。その事件の影響などもあり野球チームは解散に追い込まれるチームが立て続けにあるなどしました。その事件発覚の翌年、台灣大聯盟が発足しましたがチーム数は4チームしかなくまたケーブルテレビ放映の為に作られたという限定チームということなどもあり台灣野球界を引っ張るだけの力には限度があるでしょうから、中華職棒聯盟が残した野球界への傷跡はこれからまだまだ年月をかけて再構築しなければならないのでしょう。

 しかし台灣プロ野球の歴史は若いのですが、台灣人の野球に対する熱望はずいぶん前の日本殖民時代からあります。台灣が日本の植民地時代、台灣の学校も日本の学校とみなされていたため、台灣の高校からも甲子園へ出場する事ができました。1931年(昭和6年)の台灣代表として出場した嘉義農林高※ははるばる神戸まで4泊5日の船に乗り、甲子園に出場しました。嘉義農林の監督は松山商出身の近藤兵太郎で「俺が台灣の野球を強くする」という意気込みで台灣へ渡った人でした。その嘉義農林は破竹の勢いで勝ちあがり、決勝では0−4で中京商に敗れたものの見事に準優勝し甲子園の輝かしい歴史の中に名前を残しています。
http://gsh.taiwanschoolnet.org/1970/chinese/ball01.htm
※嘉義農林高は後年、国立嘉義技術學院となり最近、国立嘉義師範學院と統合し現在は国立嘉義大学となっています。


17. 鬼月

 六月は結婚の月です。ローマ神話の女神Junoが結婚を司る(つかさどる)という事を理由にしています。台灣でも六月に結婚式を上げる人が多くいます。でもそれはただ西洋の習慣を真似しているだけではないかもしれません。もし六月に結婚をしてしまわないと八月迄結婚を待たなければならないからです。その理由は翌月の七月(旧暦)は鬼の月として、結婚するにはふさわしくない月なのです。鬼月には結婚だけでなく引越しなども控え、葬式を出す日を選ぶのも一苦労する月です。

 七月一日には鬼の出入りする鬼門が開きこの世に鬼達がやってきます。人々の生活は信仰が厚ければ、年中様々な神によって祝福され、御加護をいただけるはずなのですがこの旧暦の七月の一ヶ月間は鬼がこの世に現れ走り回るのです。道教では様々な神々がいる中でも最高位は玉皇上帝(天公)です。その下に天・地・水をそれぞれ司る三人の神様がいます。そのうちの地官大帝は中元公と呼ばれます。中元公の生誕日は七月十五日です。(そう日本でも初夏からお盆にかけて「お中元」を贈る習慣がありますが、そのことは偶然ではないでしょう)。中元公は決して贈り物を司る神様ではありませんが、地を司る神様です。地とは私たちの今いる世界のことではなく天に対しての「地獄」ということでしょうか。七月はこの中元公の生誕日だからか、普段は天公が最高位にあるのに、この七月だけは中元公が最高の神とされるのです。鬼達は中元公の支配下にあるため七月は暴れまわることができるのかもしれません。

 日本では「鬼」とは悪魔の一種、または悪魔そのものですが、台灣では鬼とは人の死後その子孫からよく供養してもらえなかった、または子孫が途絶えてしまった本来は「祖先」として敬われるべき霊が邪悪に変化したものが「鬼」ということです。それ以外にも異常な死に方をした人たちも鬼になると考えられます。

 みなさんは「幸福になる」という事か「不幸にならない」という事であればどちらを選びますか?後者を選ぶ方のほうが多いのではないでしょうか?台灣では悪いことがあったり、不運が続くと「鬼に祟られている」と考えます。そうされないためにはどうするかというと、良い神様に幸福を運んでもらうように頼むのではなく、鬼を直接供養して悪さをしてもらわないようにするのです。そんなこともあってか、七月は年中を通して特に供養祭が開かれる月です。それらの供養を「普度」といいます。もちろんこの月ばかりは中元公が最高位で仕方ないのかもしれませんが、ほかの神々はこの一ヶ月間なおざりされてしまい、人々は鬼にどれだけ施しを与えて満足させられるかということに意識は向けられます。それは豪華な供物がささげられ、あちらの世界で生活に困らないようにと多額の銀紙(あちらでのお金)を燃やすのです。同時に七月は下げられた供物を人々が頂いて食中毒がよく起こる月でもあります。

 ところで皆さんの周りに上司の方や年配の方で意地悪な人がいても「悪人」なんて呼びませんよね。そんな事言ってしまったら更なる意地悪をされてしまうかもしれません。台灣人の鬼に対する態度もいっしょです。台灣人は鬼に向かって「鬼」とは言いません。代わりに「好兄弟」(素敵な兄弟)と呼びます。いやな相手は退治するのではなく、尽くし倒して自分の味方につけるのです。鬼月は鬼たちが悪さをして災いをもたらし忌み嫌われる月ですが、逆に鬼と交渉して悪さを止めさせられることができれば家庭円満、商売繁盛に転換できる最大のチャンスの月でもあるのです。こんなところに台湾人の生きる姿勢が見えるようです。


16. 端午節

 今年の6月15日は旧暦の5月5日に当たります(旧暦と太陽暦の相対日は毎年変わります)。5月5日は、中国の三大節の一つの端午節です※。日本で「端午の節句」と言えば、子供の日ですが、中国の端午節は特に子供の日ということはありません。しかし、端午節は子供の日ではありませんが、台湾でもその日に粽(ちまき)を食べる習慣があります。粽といってもかしわ餅のことではなく、もち米の中に豚肉や椎茸などを混ぜて笹の葉に包んで蒸したものです。粽を食べる習慣があるのは歴史において有名な伝説があるからです。

 その伝説とは今からおよそ2500年前の中国の戦国時代まで遡ることができます。屈原という今では「愛国詩人」と敬称される人物がいました。屈原は大詩人としても有名でしたが、もともと楚の国の文官でした。当時、楚は隣国で新勢力である秦の台頭の脅威にさらされていました。屈原は最良の考えとして他国と連合し野望が大きい秦に対抗するのがよいと楚の国王、楚懐王に進言します。しかし、楚懐王の側近には保身を考える者が多く屈言の意見に反対し、屈言の意見は取り入れられませんでした。しかし結局、秦の味方をした楚懐王は秦に騙されて死んでしまいます。

 しかし楚懐王の後を継いだ楚襄王も屈原の勧告を聞きいれることはありませんでした。その当時の政治組織では家臣が王に進言するということは、進言が受け入れられて昇進するか、受け入れられずに王かまたはライバルである他の家臣達に陥れられるかのどちらかしかありませんでした。そんな環境ですから屈原は襄王によって楚から追放されました。楚を愛していた屈原は大いに失望し大きい石を抱えて汨羅江(湖南省の東北)に飛び込み自らの命を絶ちました。

 屈原を尊敬している楚国の人民はそれを知ると汨羅江にかけつけて屈原の遺体を捜そうとしました。しかし、なかなか見つからないので屈原の体を魚に食べられないように汨羅江で船を漕ぎながら太鼓を打って水中の魚を脅かし追い払っていながら捜索をしました。また魚達が屈原の体を食べる代わりにと笹の葉でご飯を包み、川に撒き散らすこともしました。それが龍舟(ドラゴンボート)※とちまきの由来だと言われています。

 うちではおばあちゃんが粽作りの名人で、家族から人気があり、たくさん作ってくれます。毎年100個以上も作り、家族はもちろん、親戚などにも配ります。私は中学生の時20個食べた記録があります(一日ではありませんよ)。また端午節の日のお昼に生卵を立たせることができたら、その一年いい運をもたらすという事も言われています。私も小さいころは一生懸命チャレンジしていました。

※三大節とは春節(お正月)、端午節、中秋節(旧暦の8月15日)のことです。
※ドラゴンボートは日本ではペーロンとも呼ばれ、龍の顔と細長い船体を持ち太鼓やドラを打って漕ぎ手のリズムを取りながら、水上に浮かんだ旗を取る舟競技です。日本でも中国とゆかりの深い長崎などではペーロン大会が行われます。「ペーロン」が一体何語かは分かりません。
長崎ペーロン


15. 秀蘭の夜

 台湾バナナの13號「大学聯誼」で少し私の大学生活について触れましたが、今回も引き続き4年間の大学生活の話しで、その生活の中でもっとも重要であった専攻の日本語の勉強についてお話しをしたいと思います。

 私の卒業した大学の名前は淡江大学といいます。台北市から車で北西に50分ほど行った淡水鎮にあります。大学は山の上にあるため、キャンパス中が坂状になっていて自転車に乗る人はほとんど見あたりません。そんな淡江大学の日本語学科はA組とB組に分かれています。一組にだいたい60人づついます。こんなに多い人数でどうやって日本語を勉強するのかと思いになるかも知れませんが、会話や作文の授業はいくつかのグループに分かれてそれぞれ好きな先生の授業を受けられます。

 淡江大学の日本語学科で一番有名な授業は2年生時の高陳秀蘭※という先生の中級日本語の授業です。私がまだ1年生の時、知り合いの2年生の先輩たちが毎週、夜に「中級日本語」という教科書をじっと見つめて何回も何回も繰り返し読んで暗記しようとしている姿を見て、「明日はテストなのですか」と先輩に聞きくと、彼女に「『秀蘭の夜』って聞いたことはある?」と聞き返されました。それは、日本語学科では誰もが恐れる「秀蘭の夜」と呼ばれるもので、それを乗り越えられたらもう怖いものなしと聞かされました。その時、私は他にもその事ついてうわさを聞いていましたが、まだその恐れるべき授業を実感することはできませんでした。

 さてさて、2年生になりました。初めての高陳秀蘭先生の中級日本語授業です。その授業の終わり頃に先生は「皆さん、『いろは歌』という日本の平安時代の和歌をご存知ですよね。47字の仮名を一度ずつ使って作られた歌なのです。初めての中級日本語授業でいきなり来週この歌を覚えて来いという宿題が出たのです。一週間でたったの47字の歌を覚えるのは楽勝ではないかと思われるかもしれませんが、実はそこには秀蘭先生独自の採点方法があり単純ではないのです。採点方法とは一分間でいかに早くこの歌を読み上げ終わることができるかを採点するのです。一人ずつ先生の処へ行って読み上げて、そして先生はストップウォッチを片手に私たちの成績を決めるのです。ただ覚えるだけでなく早さも求められるのです。しかし先生が先生なら生徒も生徒です。一番早かった人はなんと4秒以内で読み上げ終わったクラスメイトがいたことをよく覚えています。とにもかくにも、そこからが一年に及んで皆が戦々恐々とする「秀蘭の夜」が始まります。

 そのようにしてクラスでは毎回小テストがあり、前回のクラスで教えられた内容を丸暗記しなければならないのです。小テストではやはり一分間与えられ、一行暗唱できたら10点もらえます。そしていかに多く(早く)を読み上げられるかが採点の基準です。10行以上は百点で合格点は60点以上です。でも最低6行暗記できれば合格できるのかと思いきや、そうでもありません。小テストは習った章−実に40行を超えます−のどこから出されるかはわからなく、秀蘭先生がテスト直前にどの段落から読み上げるかを初めて発表するのです。そこが一番難しいところです。ですから結局みんな丸まるすべての行を暗記する羽目になるのです。そしてテストの前日の夜に皆必死で教科書の内容を頭に詰め込むのです。そんな夜を昔から伝統的に「秀蘭の夜」と呼んで来たのでした。そんな具合だから友達に「今日遊びに行かない?」と誘われても「今日は『秀蘭の夜』だから」と断るとそれだけで相手は納得するのです。

 まじめな人にとって満点の100点を取るのは難しくありません。一週間前からこつこつと少しずつ暗記すればいいだけですから。中には時間内に19行を言いあげた人もいました。私といえば大変「優秀」な学生だったので毎週合格でした。その秘訣は・・・私が受けていた授業は確か水曜の午後だったのですが、私の授業の前に同じ秀蘭先生の授業を既に受けているグループがありました。秀蘭先生の小テストは難しいのですが穴があり、先生は他のクラスと不公平にならないようにすべてのクラスで出題される箇所はまったく同じなのです。ですから、私は授業の前日にすでに小テストを受けた友達にどこが出題されたかを聞いておくのです。そして当日の朝、図書館でその6行を必死で暗記し小テストに臨むのです。そして小テストではいつも、ぎりぎりだけど余裕の合格なのです。ですから、私は日本語学科の伝説、「秀蘭の夜」を経験したことがありません。はっはっは。

 上学期の最後の授業で私はもうその週の6行を完璧に覚えたので、その週も余裕で合格できるはずでした。が、なんと先生は私みたいな優秀な生徒がたくさんいることに気付き、その週の問題はまったく別の箇所から出題されたのです。しかも、その週の点数はその学期の成績の半分を占めるということだったので、すごく焦りました。しかし、どうしようもできないので、私の番が来るまでに一生懸命覚えました。結局その日は20点しか取れませんでした。総合成績は他の週で毎回合格点を取っていたのでぎりぎり合格しました。フ〜。また今度3年生以降のことを書きます。

※高陳秀蘭先生の名字の高陳は結婚して旧姓と新姓をあわせたもので、今50代以上の女性はそのようにするケースが多いです。私のお母さんも同じです。


14. 台灣のインターネットカフェ

 このメールマガジンを読んで頂いている皆さんにはインターネットというものは身近なものでしょう。インターネットの普及率はかなり高くなっています。数ヶ月前まで「インターネットって良く分からない」といっていた人が最近あったときに一番にメールアドレスを聞いてきたなんてこともありました。台灣でも同じ傾向にあります。但し、台灣と日本ではインターネットのへのアクセス方法が少々異なるようです。日本では家庭での普及率が高いせいか、それとも携帯電話でのアクセスが多かったりと以前よく聞かれたインターネットカフェというのは最近ではあまり聞きません。台灣ではインターネットカフェの存在が日本と比べられないくらい多くあります。台灣ではインターネットカフェのことを英語訳して「網路カフェ」(カフェは口遍に加と口遍に非)と言い、一般には網とカフェのカ(口遍に加)を合わせて「網か」といいます。

 ある調査によると、2000年に台灣でインターネットを使用している人口は約600万人にのぼり26%に達しているそうです。しかし一見よく普及しているようですが、最近のインターネット設備のインフラ(社会基盤)を計るのに良く使われるブロードバンドの普及率はわずか4%しかありません。ですからみな快適なインターネットを利用するために網かに駆け込むのです。

 台灣のインターネットカフェはもともと欧米をまねて社会人を主なターゲットとしてできたので、値段もやや高かったのです。しかし、この数年ハードウェーアの値段下がりとともに、多くの店が出現してきて、料金も安くなってきたため「網か」の利両者も若年層になってきています。

 お店の出現について言えば本当に驚くくらいすごく早いスピードで次から次へ新しい店が開店しています。その出現率には台灣に住んでいない私には久々に里帰りしたらよく分かります。それはびっくりです。私の家の一つとなりの道では500メール以内に「網か」だけで10軒できています(実際に数えてみました)。入ってみると、20〜30台のコンピュータが一つの部屋に並んでいます。私が帰郷した際に使った網かでは各コンピュータの横にはコインを入れる機械があり、10元(約37円)を入れると、40分間使えます。客層を見ると、ほとんど若者たちで小学生もよく見かけます。休みの日になると、席はなかなか空かないという状況で一体みんなインターネットを使って何を見ているのだろうと好奇心が沸いてくるぐらいです。

 網か利用者の90%はオンラインゲームをするためといわれています。ですから、小学生や中学生などの低年齢層の利用者が多くなっているのです。勉強もせず健全に外で遊ばず室内でずっとゲームをし続けるのも問題なのですが、近頃は学校をさぼってまで網かに通い続ける児童や生徒達が出てきています。それからまた網かは何らかの犯罪を呼び起こす場所としての傾向も強まっています。台北市では網かに対する条令ができました。あまりにも乱立し学生に悪影響を与えているだろうということで網かは学校から200メートル以上離れなければならなくなりました。利用者については15歳未満の子供は保護者同伴でなければならなくなりました。

 日本でも「出会い系サイト」というのが一つのキーワードで社会問題になったりしていますが、台灣では「網か」が一つの社会問題のキーワードなのです。私としてはこんな社会問題になって悲しく思います。インターネットはこれから増すます私たちの社会に入り込み、否応無しに利用していかなければなりませんが、善と悪の両方を兼ねそろえているインターネットはある年齢に達して自己コントロールができるようになるまでは何らかのガードレールが必要なのかもしれません。


13. 高さんの結婚式

 今回は台湾バナナ第7號 で紹介した少数民族・排灣族の頭目家長子で私の高校時代の友人高さんの結婚式へ先週出席したのでそのことをつづってみたいと思います。

 実は私と高さんは高校を卒業してから会ったことはありませんでした。手紙や電話、最近ではメールで連絡を取っていましたが、今回結婚式のため会うのは8年ぶりでした。結婚式は高さんの実家でありました。台灣の結婚式は新郎がお嫁さんを迎えに来てからまず新郎のほうで行う披露宴とその翌日にお嫁さんに行ってから初めて家に帰ってきた新婦のほうで行う披露宴があります。今回の結婚式は新婦の高さんの実家で披露宴がありました。ちなみに、台灣人の結婚式で花嫁さんは普通ウェディングドレスを着るのです。台灣の友達の結婚式に出る事を日本人の友人達に伝えると、必ず「台灣での結婚式はやっぱりチャイナドレスを着るの?」という質問が出てきます。チャイナドレスはお色直しに着る事はありますが「着るべきもの」として着ることはありません。チャイナドレスはあくまでファッション着の一つという認識です。

 結婚式の披露宴だいたい2種類に分かれます。一つは家の近くにある大きなレストランを借しきって行う方法。もう一つは昔ながらの台灣式の披露宴で自分の家の前で臨時の大きいテントと舞台を建てて行う方法です。後者の披露宴は「流水席」と言います。ご近所でも気軽に来られるので特に南部の人に好まれます。ただ、こういうような誰でも気軽に来られる披露宴はどさくさ紛れにただで食べに来る人もたまにはいるので、用心しなければいけませんと言いたいところですが、実際来られても気付きませんし、主催者もあまり気にとめません。名前の「流水」どおり人々は出入り多く実に賑やかです。主催者はもっと披露宴の雰囲気を盛り上げるためアマチュアの歌手を招いてその場で歌います。台灣人の大好きな爆竹を加えて、となりの人としゃべる時、大きい声でないと聞こえないぐらい賑やかです。正直に言ってご近所に迷惑ですが、こんなめでたい雰囲気を壊したくないためあまり文句も言いません。どちらかというと「安っぽい」というイメージが付きまとうので今の若者はあまりこういう結婚式に参加したがらないです。なんとなく恥ずかしく感じます。私も高校生になってからは流水席の結婚式には行ったことはありません。

 臨時のテント、臨時の舞台。では、あたたかい料理をどうやって皆に食べてもらえるのですかと聞きたいでしょう。たとえば、披露宴は夜に始まるとします。するとその人の朝から披露宴の料理を作る専門の人たちはやってきます。テントのそばでいろいろと準備して午後から料理が始まります。そうです。厨房は道端です。見学したい人もご遠慮なく。

 今回の結婚式には台灣原住民の九大族である排灣族の頭目家の長子である高さんの結婚式であったため族のある村の(たぶん)ほとんどの村民など実に1500人の人たちが花嫁のゲストとして参加しました。村の施設を借り切ったものでしたが、1500人ものゲストがいる会場は何かの講演会のような人数でそれは見栄えのあるものでした。排灣族では頭目家の長子が性別に関係なく頭目を引き継ぐのがしきたりなのでいうなら今回の結婚式はある王国のお姫様の結婚式という感覚といっても過言ではないかもしれません。でも新郎が外国人だったということもあり、排灣族の民俗伝統に乗っ取った結婚式にもならず一般の豪勢な結婚式といったイメージでした。でも最後に一つ気付いたのは結婚式終了後、檳榔を配っていることでした。大の檳榔好きの台湾人の結婚式でも檳榔を目にすることはありませんが(私は見たことありません)、排灣族にとって檳榔は長年愛食してきた民俗の実でもあるのでそれは自然な事なのでしょう。

結婚式の写真
http://www.public.iastate.edu/~hirok/mystuff/hsiaoching/sub.html


12. 廟

 台湾には一つのコミュニティー(ある文化的広さの地域)あたりに代表的な廟が一つは必ずあります。西洋で言えば教会、日本でいえば神社のような感覚であると思います。廟とは特定の宗教の社殿ということではなく、一般的な宗教的社殿を廟といえると思います。三国志で活躍した関羽を祭った関帝廟や儒教の祖師、孔子を祭った孔子廟や道教の廟など、宗教的な種類は様々です。廟には「…寺」「…宮」「…堂」「…壇」「…祠」などがあります。例えば仏教のであれば、「…寺」であるし、「…堂」や「…壇」が使われている場合は個人が何かの神様を祭って一般にも公開するなどというものです。

 廟とはどのようなところかといえば、メインは参詣するところですが、老人達にとっては社交の場になりうり、散歩で来てみてお茶を頂いたり、昼寝の場所になったりします。一般の参詣者たちは、何か心配事やお願い事があれば廟に参って線香を上げたりします。人気のある廟に行けば深い線香の煙が境内を囲みます。そしておみくじをひいたり、ポエ(たけかんむりに告)と呼ばれる三日月の形をした二組の竹片を投げて自分の占いたいことを占います。

 廟に献納するのはお金だけではありません日本語には奉納という言葉がります。奉納相撲とか奉納神楽などです。民芸とは神様にささげる物として発展したのだと思います。それと同じく台湾でも無形文化を神に奉納する習慣があります。台湾京劇といわれる「歌仔戯(ゴアヒ)」や指遣い人形芝居の「布袋戯(ポウテエヒ)」などを奉納するのです。

 それら奉納の集合体としてあるのが廟の祭りで、廟祭とショウ(酉に焦)と呼ばれる物があります。廟祭は毎年行われ、ショウは数年(5年〜10年以上)に一度の間隔で行われます。ショウは地域を代表する廟を祭るイベントであるし、数年に一度ということもあり、それはそれは盛り上がります。またそのコミュニティーにとっては周辺地域への面子もあるためお金も、そのコミュニティーの経済的資産から考えると想像できないほどの金額がつぎ込まれる事もあります。また祭りでの盛り上がりも大変熱いものがあり、霊憑者とでも言うべきトランス状態の人たち(実際に彼らはそれらを職業としています)が暴れだしたり自分に包丁を刺して血を流したりする人もいます。ショウには身分相応以上のものを奉納します。それはもちろんお金でもあるし、廟祭の役員(これもポエの占いで決めます)になったり、役員でなくとも労働に使える時間を惜しまずにショウの準備にかけたりします。その献身度は結構すごいものがあります。

 あまり、深く考察しすぎると宗教学や社会学の分野に触れてしまい、書く側の責任が問われるのでさらりと書きたいのですが、なぜ臺灣人がそこまで神(または仏)に対して信心が高いかというと、その「奉納」というのは信者と神との契約であるからだと思います。けっして、それらは無心のボランティアという事でなく神に良いことをした分自分にも戻ってくると考えているのだと思います。ですから、神と信者に行われる行為は資本主義的な投資と見返りという感じではないでしょうか。そういう関係を表したおもしろい記述があったので紹介します。三尾裕子氏の“廟−信仰と交際のセンター”より引用させてもらいます。

 「ある信者が当たり番号を占ってもらい、もし当たったら、ストリップの劇団を雇ってきて神に奉納します、と願掛けをした。くじの結果は当たりは当たりであったが、額は非常に小額で小遣い銭ぐらいにしかならなかった。つまり、劇団は雇ってくるほどの儲けは無かったのである。そこで、その人は困ってしまった。もし、約束を反故にすれば、これから先、神は決して彼をたすけてくれないだろうし、それどころかどんな罰を受けるか分かったものではない。しかし、劇団を雇えば莫大な自己負担を被る事になる。神の前で一日考えた末に決断した。…」ちょっとここで休憩。でも話しはまだまだ続きます。一体この人は何をしたのだと思いますか?続きを読む前に皆さんもちょっと考えてみてください。では続きです。

 「(その信者は)神の前で一日考えた末に決断した。夜中にこっそり神の前で自分のヌードを見せたのである。自演すれば、ストリップを見せるという約束は果たせ、しかもただでできるからだ。」このようなコミュニティーの拠り所であった廟の存在も近代化や都市化が進むとその存在が随分薄れてきている感じもあります。このような現実はどこの世界でも進んでいる事です。

 台湾に限らず中国の文化、漢民文化には宗教が大変重要な役割を占めます。特に中国では混沌とした宗教は「道教」と「儒教」と言った完全に離れ離れの独立した存在なのではなくそれらが複雑に絡み合っています。その混ざり合ったものは様々なところで影響しています。この中国本土の宗教そして台湾の宗教を歴史的、地理的に観察してみると他の多くのトピックにも関連性が見られます。ですからまたこの宗教を軸とした話題を何度も取り上げたいと思います。


11. 大甲媽祖遶境

 台灣ではどこに行ってもお寺があります。様々な神様がそれぞれのお寺にまつられています。その中、よく日本人の観光客に知られているのは台北の龍山寺(主神は観音菩薩)と行天宮(関羽)だと思います。今回の台湾バナナでは今月(4月)の中旬に台北から離れている台中の大甲で行われた「大甲媽祖遶境」という祭りを紹介したいと思います。

 俗名の媽祖は「天上聖母」と称され、どの宗教にも属せず純粋な民間信仰で、「海の神様」と尊ばれ、台灣では最も盛んに祭られている神様の一つです。媽祖の物語に関して時代につれて様々な伝説を付け加えられていますが、台灣では小学校の国語教科書にも媽祖の物語が載せられています。

 その物語の源流は中国の宋の時代を遡ることができます。今から1000年以前の宋の時代に中国の福建省の小さな島、mei洲(meiはさんんずいに眉)に一人の女の子が生まれました。名字は林で、生まれてから一ヶ月経っても泣いたことがなかったので、両親に「黙娘」と名づけられました。その当時mei洲島のほとんどの人は漁業で生活をし媽祖の家も例外ではありませんでした黙娘は夜に海に行っているお父さんが早く無事に戻ってこられるようよく海辺で提灯を持って船の帰りを引導します。黙娘が16才のある日、海に出たお父さんの船は暴風雨に遭遇して沈没しました。黙娘はお父さんを探すため、海に飛び込みました。それ以来mei洲島の漁民たちは海から無事に帰って来られたのは黙娘が守ってくれたことを信じています。

 その事蹟も広まり言い伝えられてきました。そして、清の時代で康煕皇帝は民間だけでなく、媽祖への祭りを年中行事の一つと命じ、そのあとの雍正皇帝はさらに全国沿海の各省でお寺を建てるのを指令しました。その当時の台灣は中国からの移民はすべて航海で来たので、「海の神様」と称される媽祖は台灣では最も信者が多くお寺がたくさん建てられた地区です。そして、各地への移民により媽祖信仰は異なる時期に伝播して行きます。媽祖の伝説も長期の発展にわたって色々と付け加えられ、「海の神様」から「万能の神様」に転じたものです。今の台灣では媽祖を主神として祭られているお寺は500余りあり、毎年媽祖の誕生日旧暦3月23日に各地の媽祖のお寺では祭りが行われます。

 台中の大甲における鎮瀾宮は200年以上の歴史があり、大甲人民の信仰の中心となります。毎年旧暦の3月になると、大甲鎮瀾宮の媽祖は台中、彰化、雲林、嘉義など中部の4縣に渡り新港后天宮まで途中数十軒の媽祖のお寺に立ち寄って、最後に新港后天宮についてからまた大甲鎮瀾宮に戻ってくる7泊8日にわたり、何十万人も動員する「大甲媽祖遶境」という盛大なイベントがあります。

 「遶」という漢字は日本語では使われていないようですが、「巡る」と同じ意味で、「遶境」はある範囲内のいくつかの場所に次々に立ち寄ることを意味します。往復で二百キロ以上もあるこの遶境はすべては歩いて行きます。イベントの日にちと出発の時刻は旧暦の1月15日にくじで決め、その後の準備作業の各担当なども信者たちはくじで決めて行います。大甲の人々にとってはこのイベントに力になることは責任でもあり、光栄でもあります。遶境の路線が通過するところの人々は自分の家からお参りのものを出し、あるいは通過する信者のために食べ物や飲み物を用意しておきます。とにかく、このイベントのために皆もくもくで自分にできることを最大限やります。

 信者たちは媽祖の本尊が自分の上に通過されると守られることを信じ次から次へ一列をうつぶせになって並んでいるのは興味深い風景となります。最初から最後まで付き添うお参りの信者もいれば、途中で入ってくる信者もいます。いくらきつくても媽祖からの守りを得られると思ったら皆誇りを持って最後まで歩き終わります。それも媽祖に対する敬意だと思われます。

 台湾では人がいるところに屋台があるとよく言われます。さて、食べ物の屋台以外は何があると思いますか?答えはくじです。こういうようなイベントの時こそ、このように神様が出てきて通過するところこそ、くじにあたるはずだと思われて、くじの屋台もこのチャンスを利用して売り上げをあげようとしています。  

http://www.gio.gov.tw/live/taiwan/festival/fest.htm
http://content.edu.tw/local/taichun/yuan/h001/ch5-1.htm


10. 旅行情報

 2週間前から応募した台灣の旅行情報です。

I. Uさん
 「以前仕事で台北・高雄・台中・斗六・チアイ(漢字思い出せません(汗))へ行ったことがあります。取引先の方達に豪華なレストランでいろいろご馳走にもなりました。それはそれで忘れられない思い出ですが、特に好きなものがあります。台湾の鉄道の駅です。 高雄の駅などは昔の懐かしい国鉄時代の駅みたいで、郷愁に襲われて・・・ちょっと困った。そして、特急自強号(済みませんキョウの文字がわからない?)の車内販売の駅弁。これが安くて美味しい。 豚を甘辛く煮込んだそのタレがご飯に沁みこんで、最高に旨かった。そして、一番好きなのは朝のお粥。朝、ホテルの食堂へ行くと、訊いてくれる。『西式、中式?』僕はいつも、『チョンスー(中式)!』ってお粥を注文してから新聞を開いて、その日をスタートしていた。」

 この前、台湾に帰ったとき、自強號の汽車を利用しました。屏東から台北まで893元(約3500円)およそ5時間でした。途中で若い女の乗務員が駅弁をカートにのせて押しながら各列車に売っていきます。この風景は何十年変わっていません。弁当は今二種類あり、鳥のもも弁当(100元)とパイコー弁当(60元)です。弁当(便當)というものは台湾ではどこでも種類が多く簡単に手に入るものです。今日台湾のニュースを見たら、ある店が1宣伝のため弁当一個20元で売っていました。ですから、小さい時から駅弁が高いという印象はずっとあったため、いつも長い時間の列車に乗る前、そとの食べ物を買って乗ります。「チアイ」は私もわかりません。

II. Yさん
 「台中から花蓮への横貫公路バス。30年位前の5月一ケ月の休暇を取り、初めて台湾へ行ったときに、地図を見てこのルートをトライしました。(現在このサービスがあるかは不明)」はい、今でもありますよ。「6時間の行程でしたが、中央山脈を越える訳ですから景色の素晴らしかったのを覚えています。たろこ(太魯閣)峡谷の頂上付近(梨山)からの眺めの良さは、表現力に乏しい私には出来ません、是非 現場にてご堪能下さい。(3泊4日とかのパック旅行ではムリです。1週間ここだけに集中すれば、絶景の太魯閣峡谷をゆっくり楽しめます。)」

 台北からでも行けます。台北から自強號で三時間、花蓮につきます。花蓮新駅前の花蓮客運バスターミナルから終点の天祥までおよそ1時間20分かかります。20キロにもわたって続く断崖絶壁は見どころです。

III. Tさん
 「特にアーリー山は夜中に車で出て(当然、台湾の方の運転です。)ふもとに前泊して朝日(ご来光)を拝みに行きました。おかげさまで天気もよくすばらしいご来光を拝めることが出来ました。行きは宿泊地のふもとから汽車に乗って頂上まで行きましたが、帰りは山道を下って戻ってきました。結構それが定番のコースになっているようで、途中には大きな檜などもあり観光ポイントがいくつもあったように覚えています。みやげ物屋も見ましたが、烏龍茶は当然として、わさびが特産なのは始めて知りました。そういえば台湾の人はわさびが好きで醤油にわさびを山盛り入れてなんでもつけて食べていたような気がします。あとは高雄といえば夜店ですね。これは休みの日は関係ないのでほとんど夕食に毎日通っていました。」。

 私も阿里山に行ったことがあります。宿泊地までずっとのぼって歩いて行きました。途中の景色はすごくきれいでした。そう、屋台です。台湾といえば屋台です。たくさんの種類、たくさんの食べものがあります。たくさん食べてください。

IV. Kさん
 「私は、海外にでたときになるべくその町にある市場とか台湾でしたら、朝の豆乳をうっているようなお店をのぞいています。その国の食がわかるようなきがするからです。…そう、私はすっごく食いしん坊なんですけど、龍山寺の胡椒餅は、去年いったときに食べましたけど、すっごくおいしかったです。後は、士林の夜市で飲んだ、ゴーヤのジュースとかパパイヤのミルク割なども印象にのこっていますね。」

 龍山寺と士林とは台北ですね。士林とは台北でも有名な屋台街です。パパイヤミルクは私も大好きです。すごくおいしいです。でも、お店にも寄ります。見分け方は…私にもわかりません。大学時代近くにおいしいお店がありよく飲んでました。

V. Sさん
 「4月8〜14日まで、台湾を旅しました。台北から自強号で高雄までいき、高雄から火車で陳さんの故郷、屏東迄行きました。屏東では駅前で自転車を借りて一日市の郊外の水田やすいか畑、バナナ畑、その他の果樹農家を訪問しました。とても楽しかったですよ(^0^)」

自転車を借りて屏東を周るとはなかなかやりますねぇ。駅前で自転車を借りれるとは知りませんでした。もし出来るのであれば、旅行者にとっては良い情報ですね。私の出身の屏東は屏東縣にある墾丁国家公園は一番おすすめのリゾートです。墾丁は、台灣最南端である恒春半島の南半分の地域をさします。気候は年がら年中春のようだ(四季如春)と言われていますが、年がら年中夏と言ったほうがあってる気がします。日本で見られない熱帯植物、奇岩を中心とした海岸風景はおすすめです。

 私は日本に来てから、台灣に帰られる時は限られています。帰るたびに、どこが変わったとか何が流行っているとか自分が観光客みたいに友達にその情報を聞きます。流行るものは時間につれて変わるのですが、おいしいものと台灣人の活気は変わらないものです。福岡からも東京からも2,3時間だけの飛行機なので、ぜひこのおもしろい島国に遊びに来てください。情報を下さった皆さんありがとうございました。


9. 檳榔(びんろう)―台灣チュインガム

 台灣に足を運んだことがある人は気付くかもしれませんが台灣では歩道から車道まで道のあちらこちらが点々と赤く染まっているのを目にします。時にはタクシーの運転手や大きいトラックの運転手など運転中に信号を待っている時、ふっとドアを開けてつばを吐くと思いきや、口から赤い汁を吐いたりするのを見る事もあると思います。一体それは何でしょう?実はそれは台灣チュインガムと呼ばれ、台灣では2、3百万人もの人たちが愛食する檳榔の木の実です。

 檳榔は台灣だけでなく、東南アジアのベトナム、マレーシア、中国南部などでも食べる習慣があるそうです。檳榔は北回帰線よりも以南に生息するといわれるように南方でのみ生産されます。台灣ではこの20年間で檳榔の生産量は驚くべき速さで伸びており、現在の生産量は稲作に次いで2番目の農作物です。産地は南投縣及びその以南の嘉義縣、台東縣、屏東縣などがあり、特に私の出身地の屏東縣では産量が多く全体の4分の1以上を占め檳榔縣と呼ばれたりもします。

 檳榔を噛んで吐いた汁がなぜ赤くなるかと言うと、檳榔には石灰を入れてあるからです。白い石灰を檳榔の葉っぱに塗って、檳榔の実を包んで食べるのです。すると噛んでいるうちに檳榔の葉っぱと石灰の間で科学作用が起こって、唾液が赤い汁となるのです。食べ方はまだほかにいろいろな方法があるようですが、石灰を塗って食べる方法が一般的です。その味は聞いた話によると辛いそうです(実際食べたことがないので、味の方はあまりはっきり言葉で表わすことができません)。値段は普通100元(380円)で20個が1パックに入っていれば品質のいい檳榔だと言えます。

 どんな人が檳榔を食べるのでしょうか。私が小さい頃は檳榔=タクシーの運転手というイメージがありました。運転手たちがあまりにもドアを開けて檳榔の赤い汁を吐くのが頻繁だからです。そして次のようなジョークさえ言われたりします。檳榔というものを知らない外国人観光客がタクシーに乗ると運転手が何気に赤い汁を吐いて運転を続けるので、その乗客は体を壊し血を吐いてまで仕事をがんばっていると思い、その熱心さに感心するというものです。檳榔はコーヒーに含んでいるカフェインと同じように人を興奮させる作用があるそうなので、夜でも仕事をするタクシーやトラックの運転手さんたちに特に好まれます。ですから、檳榔はお酒とタバコのような台灣の人々の嗜好品のようなものです。

 台灣の政府はここ数年、檳榔の問題について頭を悩ませています。赤く染まった道路は町の景観を壊すし、台灣の口腔癌の患者の9割の人は檳榔を食べる習慣があるという報告が出たりしたためです。実際口腔癌と檳榔は直接関係のある証拠はありませんが、檳榔は口腔癌の元だというのが一般の認識です。そんな檳榔を政府はどうにか取り締まりたいのですが、檳榔は利潤が非常に高いので、いくら政府が呼びかけても檳榔の生産は増える一方です。最近は法律ができ赤い汁を道に吐くと罰せられるようになりましたが、警察もその吐く一瞬の証拠を写真に撮るのが難しいのでなかなかうまく行きません。

 檳榔の問題はそれだけではありません。利潤は高いので、販売業者も多く当然競争率も高くなります。そうなると、業者たちはより多く檳榔を売るため、色々な方法を考え出しました。まず檳榔を食べる人は男性が大部分を占めています。男性の読者であれば同じ檳榔を売っているのであればどんなお店で檳榔を買いますか?業者達が着眼したのはそこです。檳榔を売る人は若くてきれいなお姉ちゃんです。そういうお姉ちゃんたちは“檳榔西施”と呼ばれています(西施は昔の中国の三大美女の一人)。そして最近の風潮で、これぞ究極といえる檳榔西施はただ檳榔を売るだけでなく着ている服を少なくしようというものです。服は少なければ少ないほどお客さんがもっと喜んで買ってくれます。県道沿いの檳榔屋台は檳榔西施をよく見られるところです。時には特定の檳榔西施が売っている檳榔を買うため、何台もの車が道路に並んでいる風景も見られます。なぜわざわざそこまで買いに行くかというとそこで檳榔西施の着ている服が特別だからです。どれぐらい特別かと言いうと彼女達の服はひどい時にはシースルー(透明性のもの)のスカート一枚だけを穿きその中には何も着てない時もあります。

 最近、交通事故で無くなった人の遺族が檳榔業者を訴えたというニュースを聞きました。遺族の言い分は檳榔のお店の前を通りかかった時に薄着の檳榔西施に見とれてしまって交通事故を起こした為だと主張してるそうです。他にも檳榔の屋台に突っ込んだとかいう事故がここ数ヶ月もう何件もニュースになりました。

 読者の皆さんはけっして交通事故を起こしたりしないよいうに春のうたた寝などに注意して毎日をがんばりましょう。

写真:http://www.public.iastate.edu/~hirok/mystuff/hsiaoching/sub.html


8. 404デモ

 私は音楽を聴くのが大変好きです。でも日本に来てからここで買ったCDの数は手の指で数えられる程度です。それはいつも台灣に帰った時にほしい歌手のアルバムを一気に買い込んで来るからです。もちろん日本で買えないCDがあるからというのもありますが、台灣で買うCDの方が安く買えるからです。日本ではもうほとんどカセットテープを見ませんが、今でも台灣の普通のCD屋さんではカセットのコーナーもちゃんとあります。CDはメーンなのですが、CDの値段はカセットテープより倍ぐらいするので私の場合は中学生の時までカセットテープを買っていました。高校に入ってからはCDを買ったりカセットテープを買ったりしていました。今はどちらかと言いうと、もうカセットテープを買っていません。

 3年前日本に来てから、夏休み、冬休みを利用して台灣に帰りますが、そのときから新しい現象が起きているのを発見しました。それは最新の海賊版のCDやVCD※が簡単に手に入るようになったことです。台灣で海賊版というと普通は夜店で売っているCDやVCDの事です。その見た目は正規版の商品とほぼ変わりません。しかし、開けてみたら一枚の白黒でよく文字が間違ってタイプし直した歌詞付きで、聞くと音質がよくないのでではっきりと海賊版と分かります。海賊版の問題はもう何十年来のことで新しい問題ではありません。

 ここで言っている新しい現象とは海賊版のCDだけでなく、この数年CDバーナー(CDを焼き回す機械)を持っている業者たちが正規版のCDを焼いて人に売るのです。業者という程の者も無く誰でもがそいう事をしているのです。カバーも歌詞も付けずにただCDだけ売るのです。それは海賊版よりも増すます安くなります。CDはデジタルですから音質も落ちません。もっとすごいのは友達の誰かそういう機械を持っていれば、空のCDを買えばほとんどただで焼いてもらえる事ができます。それはどれぐらい安いかと言うと、安ければ100円以内で最新のCDが手に入ります。買う人も売る人も喜んでこんな商売のやりとりをしています。もちろん、日本でもコンピュターの普及と共に自分でやるなり友達なりに頼んでCDを焼いてもらうことができると思いますが、台灣ではそれが顕著ですでにひどい社会現象になっていて、どこでも誰でもこのようなことをやってるいと言ってもおかしくない程のものになっています。

 これによる最大の被害者達は音楽に自分のすべての才能をかけている音楽を製作している人たちと歌手たちです。この数年間、歌手の出したCDのアルバムの売り上げはことごとく赤字ばかりでレコード会社が次から次へとつぶれて、売れない歌手も転業して早く別の仕事につこうとしています。何年か前までは一枚のアルバムが30万枚を売れると祝っていたのが今では10万枚売れると祝っている事を考えるとよく分かります。

 このように不法な販売と海賊版のCDやVCDが溢れていて、音楽関係者はどうしようもできない状態になっています。そのため、先週の木曜日(4月4日)に音楽業者、超一流の歌手たち、映画業者およそ5000人による前代未聞の全国的なデモが行われ、消費者に対する抗議と政府に対する不満を表わしました。みんな黒い服装を着て町に出てデモを行いました。デモはそれだけではありませんでした。ラジオは一日中ポップソングなしで放送されていました。それはラジオのDJたちにとってはかなりきつい仕事になり、1時間、2時間の番組の中、ずっとしゃべるしかありません。各地の映画館もその日の夜七時まで閉まっていて、消費者たちに音楽と映画がない生活がどのような物かを味わってもらってもらいました。そうでもしないと、このままでは国内のレコードもそうであるし台灣で販売すると赤字になりかねないという事で輸入されるCDの数も減るだろうし、洋楽、邦楽共に危機を迎えている音楽・映画産業です。

 お金をまだ稼いでいない学生にとって一枚のCDは手頃な値段で買えるものではないかもしれません。正規版のCDの値段をもっと下げてほしいという声も出ています。しかし、海外のCD屋さんに行ったことがある台灣人は分かると思いますが、台灣で一枚1200円で売っている正規版のCDはどこの国にもありえないぐらい安い価格です。日本だって、アメリカだって倍近くから倍以上の値段で売っていますが、なんの問題もないのですから。台灣人はその幸せをもっと自覚してもらいたいとここで言いたいです。

P.S.自分も海賊版のVCDを買ったことがあることを反省しています。

※VCDとはコンピューター用の.datファイルの形式で録画されたCDと同じ形をした保存用メディアです。CDが音しか聞けないのに対してVCDは音+映像が見れます。DVDとも違い、DVDに比べると画像の質や機能性が落ちますが、単純な分、専用のROMは必要無く皆さんが一般にお使いのコンピューターにCD−ROMがあれば見れるものです。コンピューターの普及により(なぜか日本を除く)アジアではかなり使用されています。台灣や中国でもPanasonicなどが専用のVCD器などを販売しています。旅行された場合には必ず目にできることでしょう。


7. 台湾人OL的生活

 私は来週から新たに社会人として出発するために、社会にうまく溶け込めるように社会人の先輩としてすでに働いている私の友人たちの姿を見つめてみたいと思います。そのうちの一人で私の親友のOL(正確にはOLではなくキャリアウーマンです)として生活する黄さんの一日を紹介します。彼女とは大学時代の親友で大学の一年時には同じ寮の同じ部屋で寝食を共にした仲の1人です。今は実家のあるの彰化に住んでいます。そして職場は彰化の北にある臺中縣の会社で働いています。臺中縣の臺中市は人口93万人で臺北、高雄に次ぐ臺灣で3番目に大きい都市です。臺中は臺灣の西側の中央部より若干北部寄りにあります※。そんな台湾の中央部にある臺中は北の台北と南の高雄を結ぶ、日本でいえば名古屋みたいな感じの所でしょうか。臺中といえば太陽餅が有名ですが、そんな町で働く黄さんの24時間です。

 まず、会社から車で40分ぐらいの距離に住んでいる彼女は朝6時半から7時までの間に起きます。一般的に、台灣人はだいたい朝ごはんを作りません。どこの家にも朝ごはんの店や屋台は100メートルに一軒ぐらいはあるものです。種類は多く、便利なので、しかも安いので臺灣人のサラリーマン、学生たちが皆そういうような店で食べたり、買っていたりします。朝ごはんというと日本人はだいたい白ご飯に味噌汁ですが、臺灣人はあまり朝にご飯を食べません。臺灣で朝ごはんの店というのはサンドイッチかトーストとコーヒー牛乳を売っているところです。店の人はその場で手早く作っているので、待つ時間はかかりません。しかし彼女の場合いは両親と一緒に住んでいるので、朝ごはんはいつもお父さんかお母さんが作ってくれます。お父さんが作ってくれるところが日本とは違うかもしれません。

 会社は7時50分からです。ということは、彼女は7時ぐらいまでに家からでなければいけません。しかし、前日の仕事の疲れで朝寝坊するのがよくあるそうです。そうすると、朝ごはんと化粧の時間はすべて通勤時間の中で済ませます。毎日7時50分までに会社につくことができると、月に1000元(3800円)の賞金をもらえます。そのためには車で化粧も仕方がありません。午前中は7時50分から12時30分までです。昼食は弁当が会社から出ます。おいしくないそうですが、ただなので、みんな我慢して食べます。そして、臺灣の小学校の時代からのお昼寝の習慣は会社に入ってもあります。小学生の頃は強制でみんな寝なければいけませんでしたが、社会人では昼寝の習慣は無いだろうと思っていたら、12時30分になったら電気を消すようです。昼食をオフィスの外で食べて、部屋に戻ってくると、電気は消えているし、もう寝れる雰囲気が作ってあるので、寝るしかありません。そして、1時20分からまた午後の仕事が始まります。一応仕事は5時半までです。それからアフターファイブにいそしむのかと思いきや、残業があるのは日本の企業だけではありません。サービス残業が多いので、平均一日会社にいる時間は10〜12時間だそうです。彼女は昨年の夏までは臺北の日本商社に勤めていました。その頃には日本人社員の人たちは仕事後に町へ繰り出していく人達もいたそうですが、いまの臺灣人ばっかりの会社ではそいう事も無いそうです。だから、仕事が終わればまた高速を使って40分の道のりをかけて帰宅し、帰宅時は9時ごろだそうです。日本の会社では合コンなどがありますが、台湾ではそのようなことが無い為に会社には30代の独身女性が多いそうです。

 彼女の会社では給料にすべてが含まれていることになっているので交通費や残業手当などは無く、決まった条件の中でやりくりしなければなりません。週休二日制ですが、たまには休日出勤もあるそうですが、休日出勤手当てなどもありません。しかし仕事環境は彼女の会社には意地悪な先輩とか上司とかもおらず仕事のやりやすさでいえばよいところのようです。全ての台湾の会社がこれに当てはまるかは分かりません。 

 こんなそんなと忙しい彼女は美人であるのに私生活の確保が難しく、付き合う人がいません。あんなにかわいいのにと私はおもうのですが・・・。社会人も楽ではないなと思いました。彼女の写真も載せてみました。
http://www.public.iastate.edu/~hirok/mystuff/hsiaoching/sub.html
彼女は日本語堪能です。


6. 台灣原住民1 −排灣族

 台湾バナナ第4號「二二八事件」では本省人と外省人の話しとその区別について話しました。http://backno.mag2.com/reader/BackBody?id=200203020600000000085226000しかし臺灣社会の構成を語るのにもう一つ欠かせないのが原住民です。2300万人の臺灣人口の中で、原住民の總人口はおよそ36万人で、わずか1.6%の比率しか占めていないのですが、明・清時代に中国から渡ってきた漢民族よりも早く、6000年も前から早この小さな島に住んでいると言われています。原住民は、以前は「山地同胞」「山胞」「山地人」などと呼ばれて、軽蔑されてきた歴史を持ちますが、現在では「原住民」という用語が正式称呼となっており尊厳ある言葉となっています。今でも臺灣の各地に分布しており、主として九大族に分かれています。その人口多少の順で言うと、泰雅(タイヤル)族、阿美(アミ)族、排灣(パイワン)族、布農(ブヌン)族、卑南(ピュマ)族、魯凱(ルカイ)族、鄒(ツォウ)族、雅美(ヤミ)族、賽夏(サイシャット)族になります。臺灣にくわしい方は平埔族というのもご存知と思いますが、彼らは漢民族との接触がほかの民族より早い時期からあり頻繁であり、固有の文化や言語がほとんど消滅しているため、原住民として分類されていません。しかし原住民の九大族ついて言っても、他の臺灣人と違う生活をし違う服装を着ているのかと思われがちですが、実際住んでいる村は都市からちょっと離れた山部のほうかもしれませんが漢民族と同化し、現在の衣食習慣などは普通の臺灣人と変わりません。伝統の民族衣装なども祭りなどの行事のある時だけ着ます。九大族の中の排灣族は主に私の出身地、屏東縣に集中しており、私の高校時代の親友の1人も排灣族の人なので、今回はまず排灣族の話をしていきたいと思います。

 排灣族は6万人あまりの人口があり、泰雅族と阿美族に次いで、臺灣原住民の第三大族です。主として標高100から1000メートルまでの比較的低い山地に分布しています。伝統的な派手な服飾文化を持つ事で知らされています。人、太陽、百歩蛇を信仰し非常に大事にしています。彼らはすべての生物には霊が宿ると信じ、その中でも人間の霊は一番高く崇拝されます。「パイワン」という発音も排灣語では「人」という意味でだそうです。「人」がいかに重要であるかがわかります。太陽は排灣族の最初の男女を地上に下ろした万物の中心だと考えられます。彼らの信じるところでは第一の祖先である最初の人間は一組の男女が太陽から壷の中に入ってこの大地に降りてきました。そのとき男女の周りには多くの獣たちがいて彼らを襲おうとしましたが、それを守ってくれたのが百歩蛇といわれる蛇でした。百歩蛇は実際に存在する蛇で猛毒を持ち、噛まれれば毒がすばやく回り百歩歩く前に死んでしまうという伝説から命名されています。もちろん猛毒については伝説ではなく実際に危険な蛇ですが、排灣族にとっては彼らの第一の祖先を守ってくれた守護神でありもし百蛇を見たも絶対殺してはいけません。その守護の象徴であり崇拝されるべき百歩蛇のトーテムは人間の中でも高貴な頭目と貴族の服飾にしか入れられまん。排灣族の最大の祭り(収穫祭と言い、排灣語では年を越す意味合いがある)は神様の霊に対する感謝で、神様にいい年を越すように行われる祭りです。今では5年に一度しか行われていません(もともとは3年一度でした)。祭りの主な目的は祖先の霊を招くことです。そして、悪霊を西に送り、善霊を東に送ります。その祭りは民族にとり重要な物であるので村全員が参加することになっています。

 彼らの文化はまた厳しい身分制度と男女平等の社会ということでもしられています。身分階級は頭目、貴族、勇士、庶民に分かれています。頭目(土地、地位)は世襲制なので、その長子が後継ぎをし、階級が入れ替わる事はありません。彼らの間では名前(原住民の)を見れば、その人の身分が分かるという厳しい身分制度を有し、違う階級間での結婚は原則として許されていません(開化される程度にもよります)。私の友人の名字は「高」と言いますが、それは日本が敗戦で臺灣を去ってから漢化のために付けた名字です。当時、まとまった制度がなかったので、好きなように漢民族の名字をつけられたそうです。そのため、兄弟であるのに違う名字を持つのはおかしくない事です。排灣族は未婚の男女は結婚する前、下聘(≒結納、日本語の古語の「下聘い」とは意味が違います:女性側から指定された結納品を持って行き結婚の話に進める)という形式があり、「説客」という仲人的な人が存在します。説客は要求された結納品を女性側の家に持って行くだけではなく、向こうから問われた質問をうまく相手を満足させるまで答えなければなりません。その問答はお互いに歌でおこなわれるのです。ですから、説客は非常に重要な役割で、頭がよくてかつ歌が上手ではないと、結婚の話はご破談になりかねません。私の友人の高さんのお母さんは頭目の長子であったため、もともとほかの頭目の息子と結婚すべきでした。しかし彼女が恋に落ちた相手、つまり高さんのお父さんは頭目の身分では無かったため猛反対を受け村から追放されました。幸いに長女の高さんが生まれるとお母さんは自分の両親に許しを得、再び村に戻ってくることができました。今は頭目であったお父さん(高さんにとってのおじいさん)の後を継ぎその村の代表にも選ばれ、村を管理しています。

 私の友人の高さんも今年の5月に縁を結ぶことになりました。彼女のお母さんは階級の違う排灣族と結婚をし猛反対を受けましたが、今回彼女が縁を結ぶ相手はスウェーデン人です。その頭目家の長子である彼女は将来、頭目の受け継ぎをすべきだったのですが、高さんのお母さんは若い頃の自分を見ているようなのでしょうか、賛成はしてくれなかったそうですが、反対もしなかったそうです。幸い高さんの夫になる人はこれからも臺灣に住み続けてくれるそうで、高さんがやはり頭目を継ぐことにはなるのかもしれません。彼女のおばあさんは占いをしてもらったところ彼女の一族はこれから代々、長子は女性になると出たそうです。その占い師に乗り移った霊はおじいさんの霊だったらしいのですが、その声やしゃべり方はおじいさんのそれにそっくりでおばあさんはその占いを信じているそうです。排灣族の分布図と写真が見れます。
www.tacp.gov.tw/intro/nine/nine.htm
www.tacp.gov.tw/intro/nine/paiwan/paiwan3.htm
今回は、たまたま高校時代に高さんという同級生がいたため排灣族について詳しく知り、書くことができましたが、いずれ、残る8つの少数民族についても頑張って書ければと思います。


5. 兵役

 日本国民の三大義務とは勤労、納税、教育です。臺灣人民の三大義務の中で、納税と教育は日本と一緒ですが、もう一つは兵役です。そうです。臺灣では原則として男の人は満18才で臺灣国籍であれば誰もが2年間ほどの兵役に行かなければなりません。昔はまだ制度が厳しかったとき、「役男」(兵役に服する年に近いから)と呼ばれる満16才の男の子は短期の観光でも外国に行くことは許されませんでしたが、近年になって、不満の声と兵源(兵役に服する人)過剰の問題が重なって、1988年6月25日から満16才から18才までの間は、まだ兵役に服していない男の人でも自由に出入国することができるという法律の条例ができました。ただし、パスポートの最後のページに「尚未履行兵役義務」(まだ兵役義務を果たされていません)というスタンプを押されるそうです。私は男の兄弟がいないので、兵役のことをそんなに関心を持っていませんが、兵役に関する情報やエピソードはよく友達から聞いています。まず、18才になると、在学中でない場合は兵役の令状が家に送られてきます。在学中だと、例えば、大学や大学院に行っているなら学校を卒業してから兵役にいきます。令状が届くと指定された日時と場所に行って健康検査を受け、軍種(陸、海、空)の抽選が行われます。それから無作為に決まる台灣各地の軍営で1ヶ月ぐらいの新兵訓練が行われます。この新兵訓練が終わると、またこれからの兵役は台灣のどこで服するか決める抽選が行われます。以前は抽選によってどこでも兵役に行く可能性があり、台北の人が屏東にとか、遠ければ台灣から離れている小さい島にも行かなければなりませんでした。(しかし今では離島などの服務を除けば、大抵の場合は、地元周辺で服務に着きます。それでも離島の服務が抽選で当たってしまえば地元から離れていようとも服務を行わなければなりません。)特に多くの人が嫌がるのは金門と馬祖というところです。金門と馬祖は台湾から離れている西にある小さな島群です。中国の東南沿岸の福建省のアモイとの間はほんの数十キロの距離しかありません。地理的に中国にすごく近いので、軍事的な役割はとても重要で中国脅威からの盾だと考えられます。軍事訓練もほかのところより厳しくてきついです。また、本島ではないので、行ったり来たりするのは船でしか許されません。休暇は2、3ヶ月に一回しかとれず、わざわざ軍営に会いにくる家族にとってもかなり面倒なことです。金門と馬祖は兵役の一等賞と言われます。それは台灣映画祭の中で金馬賞という最高の栄誉があり、兵役の抽選で金門や馬祖に決まってしまうと「おめでとう。“金馬賞”をもらったね」と面白半分でしゃれのようなことを言われます。そして大きな拍手を浴びされます。他の役男達は本当に喜んでくれます。それは自分に金馬賞があたるチャンスがまた一つ減ったからです。今は、昔とは少し違って金門と馬祖の抽選が最初に行われ、それが終わってから残った人は自分の地元の近くの軍営に配されます。昔と比べるとずいぶん楽なそうです。

 兵役につく事を皆が嫌がる最もの理由は兵役生活に入ったら私生活がないことと自由が奪われることでしょう。何百人、何千人が同じ時間に起きて一緒に寝て、ご飯の時間、シャワーはすべては共同です。ですから、兵士にとって一番気になるのは休暇をどれぐらい取れるかということです。それは誰も待ち遠しく、やっと一人になれる解放感や恋しい彼女と会うことができる贅沢な休みです。兵役に行ってしまうと彼女と会えなくなるので、二人の関係はこのまま続けるかそれとも諦めるかを兵役に行く前に話し合わなければいけません。男が兵役に行ってから彼女にはほかに好きな人ができて別れさせられたケースというのもよく聞く事です。それを「兵変」と言います。要するに、兵役に行っている間に彼女の心が変わったというのです。

 軍営には「栄誉假」(栄誉の休み)という制度があります。成績が優秀であれば、人より多く休暇をもらうことができます。そのご褒美のためにいい成績を出すように精一杯がんばらない人はいないでしょう。このような兵役の制度は言うまでもなく喜んで行く人が少ないです。2年間、時間の無駄だと思っている人もいます。ですから、兵役免除をされるようにいろいろな方法を考えます。さて、どんな人が兵役免除をされるのでしょうか?一般的には、例えば体重が重すぎたり、軽すぎたりすると免除されます。近視がひどすぎると免除の対象にもなります。ほかには体の病気などです。友達の話によると、知り合いの一人は兵役に行きたくないために一ヶ月間アイスクリームばかりを食べ30キロも太ったそうです。その人は見事に作戦が成功して兵役免除を受けたそうです。そのようなことは珍しくありません。政府もそんなことが分かっているので、最近また新しい軍営ができました。それは肥満の人のために設立したダイエットの軍営です。

 私の友人は最近日本人の女性と結婚しました。彼は奥さんとその両親と一緒に住んでいます。彼は日本語を片言ぐらいしかしゃべれませんが奥さんの両親からかなり気に入られているそうです。その理由とは、例えば彼は毎日朝起きると布団の角と角きれいに合わせてたたむなど、どうやら軍隊での習慣は私生活まで持ち込んできたようです。奥さんの両親はそれを見て、こんなありがたい男は今の時代にはもう珍しいと感心してすっかり気に入っているそうです。


4. 二二八事件(本省人vs外省人)

 臺灣の言葉について以前触れました。臺灣にはたくさんの言語が存在するというお話しです。たくさんの言語が存在するということはたくさんの種類の人間が存在するということでもあります。一般的に台湾には多数を占める漢民族(最初の多くの入植者は17世紀頃)とその何世紀も前から存在する少数民族が住んでいる事を知られていると思いますが、実はこの漢民族にも2つのグループが存在します。それを本省人、外省人といいます。

 今日(このエッセーを書いている時点)は2月28日です。臺灣の新しい行政院院長(首相)游錫コンは来年から2月28日を「ニニ八事件」の記念日とし国民の休日とすることを公表しました。その事件とは今から55年前(1947)の出来事です。しかし1987年の蒋経國総統(大統領)による戒厳令の解除を発表するまではその事件に関して誰でも口にすることができないまま、40年間も経過してきました。臺灣バナナ第2号で述べたように、九州ほどの大きさの臺灣ではたくさんの言葉をしゃべられています。それは今の私たちの世代は当たり前だと思ってきたことは実は多くの人々の犠牲の上に立っているという事実を歴史の教科書からしか教えてもらえません。

 1945年、日本の敗戦して臺灣から去って行きました。50年間にわたった日本による統治が終わると、そのあとすぐに中国からの軍隊(国民党)が入島してきました。ここに、新しく臺灣にやって来た人を外省人と呼び元々いた臺灣人達を本省人と呼ぶ時代が始まりました。外省人の入島は臺灣人にとって日本人という異民族の支配から中国人(漢民族)という同民族の統治者がやってくるということで、歓迎的な雰囲気で迎え入れられました。ところが新しい中国人たちは臺灣人を同等として見ず、高圧的な態度で臺灣を支配し始めたのです。そして臺灣人は思いました。「狗去豬来(犬(日本人)が去って、豚(国民党)が来た)と。その国民党の高圧的な支配に臺灣人の怒りが頂点に達し、その二つの間に衝突を起こした最大の事件がニニ八事件でした。

 1947年2月27日台北のタバコを売っていた婦人(違法ではありましたが、そういうことは慣習的であり特別にその女性が悪かったわけではありません)が当局の検査官6人と警察官4人に見つかり、商品であるタバコと売上金を没収されます。この検査官と警察官は外省人達でした。このころ本省人にそのような管理層の職につくケースはほとんどの場合ありませんでした。この婦人は子供を持ちこの商品や売上金を没収されては生きていく事ができない為、この10人にそれらを没収してくれないように懇願します。それを見ていた群集たちもこの婦人に同情的で段々と騒ぎが大きくなっていきます。その騒ぎを鎮めようと検査官の1人が威嚇の為、空砲を撃つと(それが故意か偶発かはわかりません)その騒ぎの傍観者の1人に弾があたり、死んでしまいます。翌日の28日本省人たちはこの検査官に対して何らかの対処をしてもらおうと台湾行政長官公署前の広場でデモを起こします。しかし、公署の憲兵達はデモに対して機関銃で応戦し多くの犠牲者を出しました。このデモ(根本的な本省人vs外省人=被支配者vs支配者)は全国に広まりました。それでも政府は本省人に対して歩み寄る姿勢も見せましたが、3月8日に大陸から来た新たな国民党の軍隊が到着すると新たにより一層の強行体制で臨みさらなる武器による犠牲者を出しました。国民党の調査では2万8千人もの犠牲者が出たとあります。このとき蒋介石は台湾にはまだ来ておらず1949年にやってきます。そしてその年に全国で戒厳令が敷かれ1987年の約40年間の間台湾は厳戒令が続きました。戒厳令はこの二二八事件を因るところが大きいと思います。

 この事件は国民党の汚点であるため公に語ることが出来ず、87年の戒厳令が解除されて初めて90年の高校教科書で触れられました。事件以降本省人vs外省人の対立はたびたび見る事がありました。人口は全体の10%にしかならないのに支配層である外省人たちに対する本省人の気持ち。今ではそう多くはいないと思いますが、外省人を嫌う本省人は多くいました。例えば中国本島の発音で話す乗客を拒むタクシーの運転手の話を聞いたことがあります。また私の親友のお母さんはその子供である私の友達に外省人との結婚を許していません。それから臺灣の議会を見ていると本省人vs外省人(国民党対民進党)の半世紀の遺恨の戦いがたびたび見られます。民進党の議員が議会でわざと臺灣語しか話さず、国民党の議員から「何といっているか分からない」とやじが飛ぶと、その民進党の議員は「あなた達半世紀も臺灣に住んでいるのに臺灣の文化、習慣を理解しようともせずに傲慢な態度でありつづけたから…」と返したというような事も聞いたことがあります。

 ただ、これははっきりとは書けませんが、今私たちの世代ではそれらを意識している人はほとんどいないと思います。この二二八事件は戦後臺灣の発展の裏の暗い時代を象徴する歴史の一部です。
※戒厳令は47年に一部で敷かれていて49年に全国で敷かれたのだと思います。そのところがちょっとあいまいなのではっきりといつ戒厳令が敷かれたのかは分かりにくいところでした。
※行政院院長の游錫コンのコンは「方」「方」「土」を組み合わせた漢字。臺灣語のコンピューター(BIG5)でも表記できません。


3. 樂透

 先月(1月)16日に修論を出してから、論文発表会の前の休みを利用して、11ヶ月ぶりに里帰りをしました。屏東はさすがに南国の雰囲気が漂っていて、熊本の真冬の寒さと違って帰ったその日は半袖でも汗をかくぐらいの28度でした。そのとき、ちょうど台湾では全国で縣議員の選挙の投票日に近づいているため町のあちらこちら候補者の宣伝ポスターや旗で飾られていました。しかし、町であふれている活気の理由はそれだけではありません。

 1月16日に台北銀行(3年前より民営銀行)により公益くじ(樂透)があたらしく発売を開始したからです。樂透は英語のlottery(くじ)という言葉から来ていて発音も英語に似ているし、樂透(極めて楽しい)の意味もそのままです。

 台湾では以前よりくじはありました。例えば香港で発売されている六合彩や大家樂といわれるくじなど非合法のくじなどがありみんなやっていました。また80年代中ごろに売上税(消費税)が導入されました。しかし、税収率は悪く、国が苦肉の策として思いついたのがレシートにくじをつけることでした。それまでは小さい店などでは税金を払わなくてもいいように、レシートをわざと発行しないようにすることがありました。しかし、レシートにくじ(統一發票)をつけることによってお客さんはそのレシートを発行してもらい、そして政府は税を集めたのでした。

 しかし今回の樂透は非合法でも税収の為でもない、純粋なくじです。今まで台北銀行により発売された公益くじは吉時樂、對對樂などありましたが、その中の樂透は今は一番人気を集めています。なぜかというと、それらのくじは当選金額が一定だったのに対して、樂透は当選金額が購入者に比例するからです。ですから一等の賞金(6つ全部当たれば)はくじを買う人が多ければ多いほど、賞金は多くなります。また値段も安く一枚50元(約190円)で買えます。方法は番号1から42まで好きな数字を6つ選ぶのです。もし当選者がいない場合いは次のくじの賞金へとまわされ次回のくじの当選配金額が高くなるというわけです。これにギャンブル好きの台湾人がエキサイトしないわけがありません。みんなお寺などに行ってどういう方法で得るのかは分かりませんが“神のお告げ”の番号を手に入れたと言ってはそれを元に番号を選んだり、大統領の生年月日を充てたりと色んな方法を選びます。ちなみにくじの発表の翌日にはお寺の仏像が無くったということもありました。台湾人としてはずかしい・・・。

  初回のくじでは当選者はいませんでしたが、発売開始から一ヶ月をすぎましたが当選者も出てきました。それらの当選者はみんな身分を隠して誰が当たったかは分かっていませんが、当選者を出したくじの発売所には当選者からと思われる金のネックレスのお礼が送られてきたそうです。

 政府はくじによる利益は障害者や低所得者、そして原住民保護などの福利厚生金に充てることにしています。政府の考えではこのくじはあくまでもギャンブルというよりも福利厚生補助の為の云々としたいところらしいですが・・・。ギャンブルのイメージは拭いにくいですね。それはどこの国でも同じです。くじは週に二度発売されます。一週間に一度だけではないところが台湾銀行はよく台湾人の性格を知っています。発表は火曜と金曜の夜7時55分でその一時間前ぐらいからは街ではいたるところで人だかりが見えます。

 ちなみに私も1枚買いました。私の番号は売り場のコンピューターが自動的に選んでくれた番号で2つの数字が合いましたが全ての6個の数字が合わなかったので日本に帰る飛行機は元々買っていたエコノミーでした。
台北銀行のくじのページ
http://www.roclotto.com.tw/


2. 台湾の言葉

 多くの人たちは台湾のことを色々知っている。どこでおいしい屋台の料理を食べられるとか、どこのウーロン茶が有名とか。しかし、台湾では何語をしゃべるのって聞かれたら、答えられる人は少ないだろう。台湾での共通語は中国語で、中国大陸の北京語(普通語)とは多少違うけれど、通じないことはないと思う。どこが違うのかと聞かれたら、それは台湾の中国語には台湾語のなまりが入っているからと言えるだろう。台湾はもともと中国の領土で、明・清時代から大量の移民が中国の東南沿岸から入ってきた。その中にはハッカ語(客家語)をしゃべる広東人も福建語(いわゆる台湾語・ビン(門+虫)南語)をしゃべる福建人も含まれている。もともと台湾に住んでいた原住民の言葉を加えたら、そのときの台湾はもう様々な言葉が混ざってコンミュニケーションがとられていた。

 1949年蒋介石が内戦に敗れて中国から台湾に来たあと、台湾での国民党の勢力を固めるために中国語が共通語に定められ、一時学校では台湾語をしゃべってはだめという運動をも実施していた。私の両親や祖母の話によると、彼らの小学校の時代は学校で台湾語をしゃべったら、罰金や掃除をさせられたらしい。テレビ、ラジオなどのマスコミも一切台湾語を使ってはいけなかった。それは今の私たちの世代は昔話を聞いているようで、信じられない。しかし、その時日常生活の中で中国語をしゃべられない人もいたし、台湾人としての自尊心からわざと中国語をしゃべらない人もいた。

 1988年初めて約40年間続いた中国出身の蒋介石とその子の蒋経国の蒋氏による政権が終了し台湾本島出身の総統(大統領)・李登輝氏が誕生した。中国語は相変わらず共通語ではあるが、台湾語はいつのまにか多言語が存在する台湾の人々にさらに親しまれるようになった。10年ぐらい前のコンマーシャルだが今でもすごく頭に印象が残っているものがある。ある中国語を話せないおじいさんが飛行機に乗っている。彼はスチュワーデスに頼みがあるのだが、中国語をしゃべれないからまよっていた。スチュワーデスがそれに気付いておじいさんに台湾語で「講台語嘛也通」(台湾語でも通じますよ)と言ってやさしく声をかけてあげるのだ。そのあと、「講台語嘛也通」というフレーズは大ヒットになって流行語にもなった。

 こんなにたくさんの言語が小さな島国の台湾に存在するのでニュース以外はすべてのテレビ番組で)国語の字幕が一字一字ついている。私は日本に来るまでどの国でもテレビ番組にはその国の言葉の字幕がついていると思っていた。自分の国の不思議さがなんとも思わなかった。飛行機でも列車でも路線とか止まる駅を説明する時、最初は中国語でその次は台湾語で、あとはハッカ語、英語という順番で放送されている。

 ところで我が家では何語をしゃべるだろう。うちのお父さん方のおじいちゃんは中国の広東省の出身でハッカ語をしゃべっていた。その妻である、おばあちゃんは台湾で生まれ育ったハッカ人で、小学校の時台湾は日本の殖民地だったので日本語教育を受けていた。おじいちゃんがなくなるまでおじいちゃんとおばあちゃんはハッカ語で話していた。お母さんは福建人の子孫で台湾語の環境で生まれ育った。今、私たち子供達の間では主として中国語で話していて、両親とは中国語と台湾が混ざってしゃべっている。別に意識して話しているのではなく、それは台湾のどこに行ってもよく見かける現象だと思う。


1. 自己紹介

 初めまして。これから臺灣についてのメールマガジンを発行していきたいと思います。よろしくお願いします。

 初回の今回は、発行者の私の紹介をさせてもらいます。名前は陳曉靜と書いて「チェンシャオチン」と中国語では発音します。女性です。日本では「チンギョウセイ」とロボットのような名前で呼ばれています。私は台湾の屏東の出身です。その前にまず、みなさんは台湾がどこにあるかご存知ですか?沖縄本島より南西にあり、沖縄県の与那国島からはわずか110キロメートルの距離しか離れておらず、天気がよい日には与那国島より台湾が見えるそうです。とは言っても与那国島自体沖縄本島より離れている為、台湾は日本に近いといえば近いし遠いと言えば遠いと言えるかもしれません。飛行機だと私が利用する福岡空港から台北までは2時間ほどの距離です。

 その台湾の都市台北市は地理が苦手な方でもご存知と思いますが、台北市は台湾の首都であり台湾第一の都市です。台北は台湾の北部に位置し、南部には台湾第二の都市、高雄市があります。高雄市は高雄縣(県)にあり私はその隣の屏東縣屏東市の出身です。屏東市から高雄市までは普通の交通手段(車や電車など)で30分の距離です。

 屏東は台湾の中でも南にあるため北回帰線よりも南に位置し夏は影が無くなるほど太陽が真上に着ます。冬は暖かく、日によっては半そでで過ごせる事もありますが冬の間ずっとそうかといえばそれほどは暖かくありません。夏はすごく暑いです・・・と書こうかなと思いましたが、今住んでる熊本のほうが暑い気がします。

 台湾通の方なら私が台湾南部の屏東出身と聞いて「少数民族の人かな」と思われた方もいるかもしれませんがそうではありません。私のお父さんの方のおじいちゃんが中国の広東省出身の外省人ですが、他の祖父母達は本省人といわれる台湾に昔から住む台湾人です。(外省人・本省人については追々触れていきます)

 屏東で高校まで過ごした後、台北の北西部にある淡江大学で日本語を専攻しました。その後1999年春に九州の熊本に渡日して熊本大学の大学院で日本語を更に勉強しています。この春には卒業予定ですが、進路として熊本にある企業に就職が決まっているので引き続き熊本に残る予定です。

 台湾ではまだ旧字体(繁体字)が使われています。例えば「台湾」という漢字も実は略字・簡体字で本来は「臺灣」と書きます。少々難しい漢字ですが、学校などでは生徒の漢字能力を維持する為テストなどで簡体字で書いたりすると減点の対象になります(少なくとも私たちの時代はそうでした)。このメールマガジンでは台湾の雰囲気を出すため基本的には表記できる範囲で繁体字を使いたいと思います。もし、「臺灣」とかいう字などこれは読めないだろうなと思えるものには簡体字を添えたいと思います。

 このメールマガジンを発行していくに当たって、何を書いたらいいのかなという迷いあります。ですから、読者の方々に「こんな事書いて」とリクエストや臺灣についての疑問等などを頂けたら幸いです。ただ、「60〜70年代の国民党の反共産主義に対する政治政策について書いてください」などという深いテーマの物にはちょっと答えれません。臺灣といえば必ず大陸中国との対比がトピックとなりそうですが、このメールマガジンではそういう政治・思想の話題は特には書かないつもりです。それは難しい話題であり、また私一人の意見が台湾人の考えの総意でもないからです。ただ中国は臺灣にとり良くも悪くも無視できない国であり中国を語らずに台湾を語らない事は出来ない部分もあるのでそれなりの範囲で中国についても触れることはあると思います。

 それではこれからも(出来るだけ)長い付き合いをしたいのでよろしくお願いします。


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